ROOT催事場マウスランド

#05 矢吹丈マウス

種別:光学目 チルトホイール科 灰になるまで使い倒したマウス

壁にある時計は、午後11時50分を指していた。
空調が暑くもなく、寒くもなく調整されたその部屋で、私の心はうちひしがれていた。

なんの気無しに、部屋を出る。
すぐ近くに、窓がある。
窓の外には、高層ビル群が雨に濡れて、墓石のようにそびえたっている。
東京ではあたりまえのその風景を、窓が四角く切り取っていた。

--帰りたい。

昔から、ホームシックになる癖があった。
どこにいっても「帰りたい」と言い出し、親を困らせたこともあった。
本当に、家に帰りたいのであった。
臆病者だとか、逃避だとか、無責任だとか言われてもいい。一向に構わない。
地位も名誉も、欲しいなら全部くれてやる。
私にとっては、それが一番価値のあることだから。

アイウィッシュ、アイワーバード。
昔聞いた、英会話学校のCMのフレーズが、私の口からこぼれてきた。

今私の願い事が叶うならば翼が欲しい。
そいや、小学校のとき、クラスで合唱で歌ったことがあったな。

窓の外の風景は変わらない。変わりはしない。
相変わらず、暗い夜空に聳え立つ、巨大な墓石を写しているだけである。

ここへきてから、心の底から、喜びを感じたことが一度もなかった。
束縛されることが、こんなにも、人の心を荒ませるのである。
なんてことはない、どうでもいいことでも、人に厳しく当たってしまうこともある。

私が使ってるマウスと、ほとんど同型のマウスを、同じ会社の人が使っている。
ただしそちらのは無線である。
私は無線というのは信用できないので有線派なのだ。
したがって、その人と無線、有線の優越について衝突したこともあった。
ものすごく、イライラしている。

マウスのボタンが、効きが悪くなっている。
クリックするときも強く押さなければならなくなってしまった。
ボタン部がバカになっているのだが、そうしてしまったのも、イライラしているからだろう。
私の周りの人もそれに気づいている。

涙が出てきた。

私は、ここから生きて出られるのだろうか…
生きて帰ることができるのであろうか…
もしそれが叶わぬことであったら、自分はなんて不幸なのだろうか。
人生を十分楽しむことのできないまま、終わってしまうなんてのは最大の不幸である。
それだけは、絶対に避けなければならないのだ。
ちゃんと生きていくことが、私への絶対条件なのだ。
しかし、このような状況で生きていくには、この終わりのない束縛を受けなければならない。

輪廻、という言葉が思い浮かんだ。
まさしく、この状態こそが、何物にも替えがたい不幸であろう。

外は、雨が一段と強くなってきた。
窓は雨に打たれて、一層視界が悪くなった。

矢吹丈マウス